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2010年6月27日日曜日

「元陣屋」とは?



 安政2年・1855年に、秋田藩が増毛での北方警備を命じられ、翌年侍の詰め所として元陣屋が建てられました。現在の増毛町の永寿町一帯が元陣屋の跡地になっており、当施設の名称の由来にもなっています。
 幕末の1853年はペリーが黒船で浦賀に来航した年です。当時和人(日本人)の漁場は樺太にまで拡大していました。同時にこの年、ロシア船が樺太のクシュンコタンを占拠するという事件が起こります。そのため急きょ北方警備の必要が生じ、蝦夷地(北海道)各地は幕府の直轄となり、東北諸藩が警備と開拓に赴き、陣屋を各地に建設しました。
元陣屋の「元」は拠点という意味です。秋田藩は宗谷と樺太にも陣屋を築いて警備にあたりましたが、こちらは「出張(デバリ)陣屋」と呼ばれ、夏の間だけの警備を行い、冬の間は増毛に戻ってきて越冬することになっていました。
 秋田藩はあしかけ12年間、増毛の元陣屋を中心として警備と開拓を行いました。実際にロシアと交戦する機会はありませんでしたが、建物は非常に簡素なつくりで、冬の間には多くの凍死者や病死者が出ました。病気の原因の多くは冬季間の野菜不足による水腫病(現在の壊血病)と言われ ており、多い年では一冬で30名以上が病気で命を落としています。彼等にとって一番恐ろしかったのは、ロシア軍よりも北海道の厳しい寒さだったのかもしれま せん。